宇野康秀氏との出会い
――そんな「濃い」先輩たちに囲まれながらも、島田さんは宇野さんたちと出会って入社2年でリクルートを辞めてしまいます。インテリジェンス創業メンバーの4人は、どこでどう出会ったのですか。
島田:リクルートの87年入社組は仲が良くて、都内配属の連中は週末にレストランやククラブを貸し切って懇親パーティーをよくやっていました。
入社2年目の春のことです。その日も同期5、6人で飲みに行く予定だったのですが、みんな後から仕事が入って私と前田徹也さん(現ワークスエンタテイメント社長)の2人だけになりました。
彼が「島田はこれから何がやりたいの?」と聞くので、私は「ずっと自分で商売をやりたいと思ってきた」と本音を話すと、前田さんが「それなら面白いやつがいるから会いに行こう」と言い出して、当時リクルートコスモス(リクルート・グループのマンション販売会社)が入っていたG7(銀座7丁目にあったリクルートの自社ビル)の地下の社員クラブに行きました。
降りてきたのがコスモスに入社したての宇野康秀さん。宇野さんは「自分は大阪有線放送の創業者の息子だけど、次男なので継ぐ予定はない。自分も起業したいと考えている」と言いました。私たちから見れば「帝王学を学んだ人」ですよ。
その場で宇野さんが「もう一人呼んでいい?」と呼び出したのが、宇野さんとコスモスの同期で、赤坂営業所にいた鎌田和彦さんでした。宇野さんと鎌田さんは学生ベンチャーの顔見知り。当時はまだ、起業を志す若者はそれほど多くなかったのですが、そんな中で起業を目指す4人が出会ったわけです。
――そこからわずか半年で、インテリジェンスを立ち上げます。
島田:4人で3回か4回、ご飯に行ったあとのことです。全員が起業を目指しているのなら「会社を作ろう」「社長は宇野さんがいい」という話になったところで、宇野さんが「社長になってもいいけど、本気なら会社を辞める日を決めようぜ」と言い出して、退社の日を半年後の1989年9月末と決めました。
――何をやるか決める前に、起業を決めてしまった。
島田:そうです。理系が一人もいないのでモノ作りはできない。4人ともお金はないからCAPEX(設備投資)の大きな事業もムリ。元手がなくても始められる不動産仲介業も考えましたが、最終的には「人材がいいんじゃないか」という結論になりました。
(バブル経済絶頂期の)当時はどこも人手不足で、大企業を中心に採用の予算は有り余っていて、それを求人広告の形で全部リクルートが持っていく構図になっていました。私たちは「新卒を採用するには、インターンシップやイベントなど広告以外のやり方もある」と考え、「人材の総合代理店」というコンセプトを打ち出しました。法律で採用代行はできませんが、それ以外の採用に関わる全てを請け負う代理店を目指しました。
* * *
しかし、そこで若き挑戦者たちを待ち受けていたのは、戦後最大の疑獄「リクルート事件」であった。【後編に続く】
▼▼▼後編記事▼▼▼
【つづきを読む→】「起業直後のリクルート事件でどん底へ」元楽天副社長・島田亨氏が語るメガベンチャー「インテリジェンス」創世記 それは原宿の風船配りから始まった
【PROFILE】
大西康之/ジャーナリスト。1965年生まれ、愛知県出身。早稲田大学法学部卒業後、日本経済新聞社に入社。欧州総局(ロンドン)、編集委員、「日経ビジネス」編集委員などを経て2016年4月に独立。著書に『稲盛和夫 最後の戦い――JAL再生にかけた経営者人生』『会社が消えた日――三洋電機10万人のそれから』(いずれも日経BP)、『ロケット・ササキ――ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正』(新潮社)、『東芝 原子力敗戦』(文藝春秋)、『起業の天才!――江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(新潮文庫)、『最後の海賊――楽天・三木谷浩史はなぜ嫌われるのか』(小学館)など。最新刊は『修羅場の王――企業の死と再生を司る「倒産弁護士」142日の記録』。