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意外と知らない「山手線」の秘密 なぜ「やまてせん」と呼ぶ人がいるのか?

「やまてせん」と案内されていた時代

 山手線は開業から今日まで、「やまのてせん」と読むのが正式な読み方だが、生粋の江戸っ子の中には「やまてせん」と呼ぶ人も多い。江戸っ子同士で通じる言い回しかと思いきや、実はそうではない。戦後の一時期、国鉄は本当に「やまてせん」と案内していたのだ。

 事の発端は、終戦直後日本が連合国の管理下に置かれ、連合国軍の関係者が山手線の電車を日常的に利用するようになったこと。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示で、電車の行先表示板や駅の案内板に路線名をローマ字で記す際、国鉄の担当者は「YAMATE」と書いてしまったのだ。今もそうだが、国鉄やJRの関係者は山手線を「やまて」、さらに略して「やて」と呼ぶこともある。

「やまてせん」という読み方が定着してしまった1964年、さらに厄介な出来事が起きる。田端~品川間の線路の隣を走る京浜東北線の電車が、横浜市の「山手(やまて)駅」に停車するようになったのだ。また、当時山手線の電車の行先表示器には、現在のような「山手線」ではなく「山手 YAMATE」と書かれていたことも、混乱を生じさせやすかった。車内や駅構内の案内放送でも、「線」を省いて「やまて」と発声する駅員も多く、昔筆者の親類が上京した時、横浜方面に行く電車だと思い、誤って山手線の電車に乗ったこともあった。

 間違っているうえに紛らわしいと、国鉄は1971年、「やまのてせん」と案内することに決めた。それと同時に、電車の行先表示器の標記も「山手線 YAMANOTE-LINE」へと改められた。それでも、「やまてせん」という言い方に親しみがある当時の人たちは多い。もしそう呼ぶ人に出会った時は、この話を思い出してもらえると嬉しい。

【プロフィール】うめはら・じゅん/鉄道ジャーナリスト。大学卒業後、三井銀行(現在の三井住友銀行)入行。雑誌編集の道に転じ、月刊「鉄道ファン」編集部などを経て2000年に独立。現在は書籍の執筆や雑誌・Webメディアへの寄稿、講演などを中心に活動し、行政・自治体が実施する調査協力なども精力的に行う。近著に『新幹線を運行する技術 超過密ダイヤを安全に遂行する運用システムの秘密』がある。

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