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命がけの荒行を終えた比叡山大阿闍梨が説く「定年後をよく生きる知恵」

草鞋で4万kmを歩き抜いた光永師(撮影/打田浩一)

草鞋で4万kmを歩き抜いた光永師(撮影/打田浩一)

「満行後」と「定年後」は同じ

●定年後は「地位」ではなく「中身」が大切です

 人生の半分以上の時間を捧げてきた「サラリーマンとしての生活」にひと区切りがつくと、組織人の誇りだった「役職≒地位」もなくなってしまう。会社員時代、アイデンティティの拠り所を「役職≒地位」に求めていると、「会社員人生の終わり」を、まるで自分の人生の終わりのように感じてしまう人もいる。

 光永師は「じつは、私にもそんな時期がありました」と打ち明ける。

「千日回峰行を『満行』した後のことです。お目にかかった方々から『大阿闍梨さまが想像していたよりもお若くて、びっくりしました』と驚かれたのです。それも、そのはず。私は28歳で行に入り、34歳で千日回峰行を満行いたしました。人間の平均寿命が30歳前後だった平安時代とは違い、人生100年時代と言われる現代では、34歳の僧侶など一介の若者に過ぎないと感じる方もいらっしゃいます。けれど、形の上では大阿闍梨と呼ばれてしまうのです」

 そのギャップに戸惑いを覚えた光永師。千日回峰行の戒めを見つめることで、躓きを解消する気づきを得たという。

「『大行満大阿闍梨』というのは回峰行者の称号であって、千日回峰行を満行しても僧侶としては一僧侶・光永圓道のままなのです。

 その戒めは、千日回峰行という形そのものにも含まれています。回峰行は『千日』といいますが、その日数は厳密には『975日』なのです。そこにこそ、この行の本質があると思います。25日欠けているにもかかわらず、満行したことになってしまう。いわば終わらない行なのです。この届かない25日を、私は一僧侶・光永圓道として、残りの一生をかけて行じていくしかありません」

 光永師は、人生100年時代における「定年」にも、回峰行の「満行」と同じ性質があると説く。

「会社勤めから引退なさるとき、たしかに皆さまは『局長』や『部長』などという『地位』を失います。けれど地位を失っても、『中身』は決して奪われません。むしろ定年後の20年、30年という人生において、肩書きのない『裸一貫のあなた』として、これまでに築き上げてきた中身をさらに磨き続けることが重要ではないでしょうか」

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