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島崎晋「投資の日本史」

近代日本が欧米列強に対抗するために取り組んだ「台湾統治」は困難続き 植民地化1年目には日本の総予算の33%を投入、フランスへの売却案も検討された

1916年完成の「台湾総督府」の建物。現在は中華民国総統府として使用されている(Getty Images)

1916年完成の「台湾総督府」の建物。現在は中華民国総統府として使用されている(Getty Images)

 太平洋戦争終結から80年を迎える2025年は、日清戦争に勝利した日本が1895年の下関条約で台湾・澎湖諸島の割譲を受けてから130年の節目でもある。今日では台湾は「親日国家」としてのイメージが強いが、日本による台湾統治が始まった当時は決してそうではなかった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第21回(前編)は、欧米列強の支配下になるのを避けるため、明治政府が取り組んだ台湾統治(植民地経営)の始まりを取り上げる。【前後編の前編】

欧米列強による日本侵略を避けるための「植民地経営」という選択

 慶應義塾大学の創始者で、明治初期に著した啓蒙書『学問のすゝめ』が大ベストセラーとなった福沢諭吉(1834~1901年)は、明治18年(1885年)3月16日、主宰する『時事新報』社説に「脱亜論」を掲載し、日本の教育や文化、諸制度を西洋化することで欧米列強に対抗する主張をしたことでも知られている。

 地球規模で欧米列強による領土獲得競争が展開されるなか、生存競争を勝ち抜くには、他のアジア諸国が覚醒するのを待っていたのでは手遅れになる。植民地化や、経済を牛耳られる半植民地化を回避するには富国強兵の道を邁進して、列強の仲間入りを果たすしかない──。一部の極論者からはそのように解釈されたわけで、「植民地の有無」と「植民地経営の成功」こそ日本が列強と呼ぶに値するかどうかの重大な目安だった。

 とはいえ、どの列強の手も及んでいない国や地域は限られている。東アジアでは、清国(中国)が主権か宗主権を唱えながら統制が十分に及ばないところしかない。その中で日本が最初に目をつけたのは、清と「琉球帰属問題」で争う沖縄・先島諸島の目と鼻の先、台湾だった。

1874年の「台湾出兵」は近代日本初の海外派兵だった

 清国が台湾を版図に入れたのは1683年のこと。前王朝である明(1368~1644年)の復興を掲げる勢力が根拠地にしていたために武力制圧したが、好んで欲したわけではなかった。とはいえ無法者の巣窟とするわけにもいかないため、翌年には海峡を挟んで大陸側にある福建省下の1府3県とし、役人を常駐させることにした。その後、主に福建省南部から多数の移民が流れ込み、先住民と抗争を展開したが、19世紀後期になってようやく、漢人移民の子孫が平野部を独占。追われた先住民は山岳部という住み分けができつつあった。

 日本が台湾と関わりを持ち始めたのもこの時期で、明治4年(1871年)に台湾南部の牡丹社近くに漂着した宮古島の島民54人が先住民に殺害された事件に端を発する。同7年(1874年)5月、明治政府は日本人の保護義務を大義名分に台湾出兵を実行に移したが、これこそ近代日本による海外派兵の最初だった。

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