開拓使が招聘した「78人のお雇い外国人」とその功績
ケプロンとてあらゆる産業に通暁しているわけではなかったため、開拓使が招聘したお雇い外国人は総勢78人を数え、そのうち48人がアメリカ人だった。よく知られているように、明治政府は近代化・工業化を実現するために明治時代を通じて合計1万人弱のお雇い外国人を招聘。教育や医療、建築など分野にもよるが、全体としては4割強がイギリス人で占められ、フランス人、ドイツ人、アメリカ人がこれに次いでおり、北海道開拓使に占めるアメリカ人比率の高さは特殊な例だった。
開拓使に招聘された彼らの功績は多岐にわたるが、農畜産業と水産業を例にいくつか取り上げたい。
水稲の導入はことごとく失敗に終わり、これと言った代替作物もなく、江戸時代の農民にとって北海道は鬼門だった。だが、海外の技術や作物が導入されるとなれば話は別で、原野を切り拓くことから始まった農業では、北海道の気候に合わない米作中心の在来農法に代えて、欧米の畑作品種の導入、家畜の取り入れによる作業の効率化などが推進された。まだ先の話になるが、北海道での成功は他の県で外来種を本格導入するにあたっての手本ともなる。
このとき導入された農作物は、大麦、小麦、裸麦、燕麦、トウモロコシ、ジャガイモ、菜豆、キャベツ、玉ねぎ、カボチャ、トマト、メロン、工芸作物では甜菜、亜麻、ホップ、煙草、牧草ではクローバー、チモシー、果樹ではリンゴ、洋ナシ、サクランボ、ブドウ、イチゴ、グスベリー、カーレンズなど。日本の在来種や他の地域で栽培歴があるものも含まれた。ジャガイモやトウモロコシ、ホップ(サッポロビールの製造開始は明治10年)など、今日まで特産品として知られるものもある。
家畜では外来種の導入が積極的に行なわれた。馬は江戸時代から運搬に用いられた道産子の飼育を受け継ぎながら、農耕と乗馬用として速歩の得意なアメリカのトロッター種と在来の南部馬が移入された。牛では在来の但馬牛と南部牛に加え、食用に適したデボン種、乳用牛のエアシャー種の飼育も始められた。また、羊では羊毛兼食用に適したサウスダウン・スパニッシュメリノ種、豚では黒豚とも呼ばれるバークシャー種が移入された。
水産業では江戸時代以来のニシン漁に加え、輸出用の加工品の生産が奨励され、明治10年(1877年)には石狩に日本初の缶詰量産工場が建設されている。同工場の主力となったのはサケの缶詰だった。また乱獲により近海でのニシン漁が衰退すると、沖合や遠用でのサケとカラフトマス漁が漁獲量の6割近くを占めるようになる。