明治政府の「北海道開拓方針」はアメリカ人主導で決められた
北海道開拓のためにその道のプロを海外から招聘する。そのために、開拓使はアメリカ合衆国政府で農務局長を務めるホーレス・ケプロンに白羽の矢を立てた。北海道新聞社刊行の『新版 北海道の歴史 下(近代・現代編)』によれば、当時の太政大臣を上まわる高給待遇で招かれたケプロンは明治8年(1875年)5月に日本を去るまでの4年間に3度、北海道を視察してまわり、高度な産業の先進地となりうる将来有望な土地であると結論付けた。ケプロンはまず、自給体制の確立が必要との観点から、以下のような開拓方針を提示した。
【1】気候・地形・地質・物産等の調査
【2】測量・土地区画
【3】道路整備
【4】運送の方法と経費の検討
【5】移民法の制定
【6】生活文化の改良
さらに産業の開発・振興策としては、以下のような方針を掲げた。
【1】畑作・酪農を主とした洋式農法の導入 種苗・農具・耕作法・試験場・農学校
【2】製材・加工を中心とした木材工業の振興
【3】漁業制度の改革(自由漁業)と資源保護及び水産加工と輸出の振興
【4】民間資本や外資導入による石炭開発
【5】農林水産物の加工、道内での消費物資・生産資材の自給、輸出商品の生産をめざした工業の振興
ケプロンの方針に一貫していたのは基礎的事業の重視、民営、自由主義の3点だったが、財政の逼迫と民間資本がまだ育っていないという日本の現状から、忠実に実行するのは不可能に近かった。それもあって、即効性の重視、官営、保護主義の立場を取る開拓使長官の黒田清隆とはしばしば意見対立が生じたが、優先順位の入れ替え、目標達成時期の先延ばしなどの工夫を凝らすことで、北海道の開拓はおおむねケプロンの方針に基づいて進められることとなった。